【リュカ・ディラン・セイラン】選んだのは“真実”への道 それがどんなに痛くても

投稿者: | 2025年7月4日

※この作品はAI(人工知能)を利用して執筆されています。
登場する人物・団体・出来事はすべてフィクションであり、実在のものとは一切関係がありません。
AIとの対話をもとに物語を構成しております。
お楽しみいただく際は、その点をご理解の上お読みください。



― 小さな作戦会議―

夜が明けきらない頃。
交代で少しだけ眠ったリュカとディランは、君への説明も兼ねてリビングに集まっていた。
まだ薄暗い部屋。カップから立ちのぼるミルクティーの湯気だけが、ほんのりと温かさを灯していた。

君が二人の視線を感じて、小さく口を開く。

「……私、たぶん、まだ何も分かってないんだよね。
記憶とか、手紙とか、セイランって人のこととか……」

その声に、リュカはふわりと微笑んでから、まっすぐ君を見つめた。

「うん。だからこそ、今ここで、少しずつ説明していくね」

彼はゆっくりと語り出した。

「セイラン=ノクターン。彼は“記憶術”の術師で、
その名は記録には残らないけれど、いくつかの重大事件の裏で語られている人物なんだ」

「彼の使う術は、人の記憶を読む、封じる、託す――そんな高度なものばかり。
記憶を他人に“預ける”という技術もそのひとつで、
その記憶は術を解かれるまで封じられたまま、預かった者の中で生き続ける」

リュカはそこで目を細め、ディランに目を向けた。

「……ディラン。
“記憶を返してもらう”っていう手紙――あれは、セイランが過去に君に預けた記憶を返してほしいって意味なんだろう?」

ディランは静かに頷いた。
その目は、どこか過去を思い出すように陰を帯びていた。

「あぁ。あの時、オレはアイツに会った。
西の外れの廃墟の街で、アイツはまるで“待ってた”ようにそこにいた」

「……オレに“記憶を預かってほしい”って言ってきたんだ。
内容は明かさず、ただ、“大切なもの”だって言って。
その代わりに、当時オレが追っていた裏切り者の情報をくれた。取引だった」

君がそっと唇を噛む。

「……その記憶って、何だったの?」

ディランは眉を寄せ、首を振った。

「術のせいで、中身は分からねぇ。
けど……“自分の中に何かがある”って感覚はずっとある。
夢の中で知らない景色が浮かぶことがある。
まるで……誰かの記憶をのぞいてるみたいな」

リュカが、少し躊躇いながら言葉を継ぐ。

「はな……その記憶はね、君に関わるものかもしれない
確証はない。でも、“あのタイミングでセイランが動いた”こと、
そして“君の家――この家の周辺に、術の痕跡があった”こと。
それらを踏まえると、無関係とは思えない」

君の心に、ひやりと冷たいものが走った。

「私に……?でも、私、セイランなんて知らないよ……」

ディランが静かに言う。

「オレも分からねぇ。
でも、トワのやつが以前言ってた。“その記憶は、ある組織を壊滅させるほどのものかもしれない”って。
……もしそれが本当なら、そこには“戦争のきっかけ”や“真実”が隠れてる可能性すらある」

君はミルクティーのカップを両手で包み込んだまま、少しだけうつむいた。
頭の中で何かがつながるようで、でもまだ霧が晴れない。

「……じゃあ、セイランは敵なの?」

しばらく沈黙が落ちたあと、リュカがゆっくり首を振った。

「……違う。敵と決めつけてるわけじゃない。
でも、“記憶”っていうのは、扱い方を間違えると人を壊す力を持ってる。
君の記憶に関わる人物だからこそ、僕たちは“慎重でいたい”んだ。君を守るために

ディランも小さくうなずく。

「敵意は感じなかった。
けど、アイツは必要なことなら情も切るやつだ。
危害を加えたいってわけじゃなくても、オレたちの意思を無視してでも記憶を取り返す可能性はある。
だから――オレたちは用心してる。それだけだ」

君はふたりの言葉を受け止めながら、
やがて、そっと目を閉じてから静かに口を開いた。

「……うん。わかった。
全部はまだ分かんないけど、でも……
二人がそうやって守ろうとしてくれてること、ちゃんと伝わった」

「私、自分の記憶と向き合いたい。逃げない。だから……一緒に、進んでいきたい」

リュカはふわりと笑みを浮かべ、ディランは照れたように頭をくしゃっと撫でてきて、

「よし。“チーム・はな”、今日も出動だな」

「……ほんとにその名前、定着させる気なの?」

張りつめていた空気に、ふっと柔らかな笑いが灯る。

こうして――
三人の小さな作戦会議は、過去の真実へ一歩踏み出すための、やさしく確かな決意として幕を閉じたのだった。



― セイランに届ける手紙 ―

夕方の空は、少しだけ不安げな色をしていた。
風が窓を揺らし、カップのミルクティーがわずかに揺れる。
リビングには、三人の静かな気配があった。

君はクッションを抱えてソファに腰を下ろし、ぽつりとつぶやいた。

「……私、ちょっと思ったの。
セイランって、確かに怖いところもあるけど……
もしかして、ただ“ちゃんと話せてない”だけなんじゃないかなって」

リュカがそっと目を上げる。

「……その理由、聞かせてくれる?」

「“記憶を返してもらう”っていう、あの手紙。
あれ、あまりに一方的だったよね。
どんな気持ちなのかも、なんで今なのかも、全然わからなくて……
でも、敵意があるようには見えなかった。
ただ、“伝え方が足りてない”だけかもしれないって、そう思ったの」

しばらく沈黙が流れて――ディランが小さく笑う。

「……オレも、そう思ってた。
あいつは口数少ねぇからな。だけど、オレたちが黙ってたって、何も変わらねぇ。
だったら、いっそ――」

「こっちから、伝えようか?」

リュカの問いかけに、君は頷いた。

「うん……
ディランが返す意思があるって、
それだけでもセイランに伝われば……きっと何かが変わる気がする」

「でも……どうやって? 普通の手紙じゃ、届かないよね?」

リュカはそっと立ち上がり、書斎へ向かって行った。
そして戻ってきたとき、彼の手には淡い光を帯びた古紙と、小さなインク瓶があった。

「これは“記憶術の術者にしか反応しない紙”と“符文付きのインク”。
セイランが最初に手紙を送ってきたときと同じ術式で作られてる。
ここに書いた言葉なら、彼に――届く

ディランが腕を組んで君を見つめる。

「お前が言った“伝えたい”って気持ち、オレはわかった。
返す気はある。
だから、リュカ。書いてくれ。
オレたちの言葉で、“大丈夫だ”って伝えてやれ」

君はそっと息を吸い、やわらかく微笑んだ。

「……お願い。
私はうまく言えないけど、リュカとディランなら――きっと届く」

リュカは微笑みながら、ペンを取り、静かに紙に向かう。
そして、心をこめて綴った――


──セイランへ

君の“記憶を返してもらう”という言葉を受け取りました。

僕たちは、すべてを理解しているわけではありません。
けれど、あれが君の大切な記憶であり、
かつてディランに託したものだとするなら――

ディランは、返す意思を持っています。

ただ、返す方法が明確ではない今、
君と直接、きちんと“対話”がしたい。
君の目的を知りたい。そして――
何より、君の気持ちを聞きたいと思っています。

僕たちは敵意を持っていません。
君が危険な術者であるとも、軽率に判断しません。
君が返してほしいものがあり、
それが“はな”に関わるものであるのなら――

僕たちは、向き合う覚悟があります。

でもこれは、君に対する圧力ではありません。

どうか安心して姿を現してほしい。
この手紙は、ただの“呼びかけ”です。

会える日を、静かに待っています。

──リュカ・フェルノート
──ディラン・クロウフォード
──そして、はなより


リュカが最後の一筆を入れ、ペンを置く。

「……書けたよ。君の気持ちを、僕たちなりに整えたつもりだよ」

ディランが封筒を閉じ、リュカが淡い術式で封印を施す。
光が一閃したあと、封筒はふわりと空気に溶けるように消えていった。

「これで、彼のもとに届くはずだ」

君の隣に腰を下ろしたリュカは、そっと君の手を取り、あたたかく包みこんだ。

「……よく決断したね、はな。
君が“伝えたい”って言ってくれたその気持ちが――
いちばん大切な一歩だった」

外は、すでに夜の帳が下りていた。
でもその部屋の中には、伝わることを信じる光が、確かに灯っていた。



― 手紙を出した夜 ―

封筒が霧のように消えたあと、リビングはふたたび静けさに包まれた。

君は、少し空っぽになったような感覚でソファにもたれ、
ぽつりとつぶやく。

「……届くといいな」

その声に、リュカは君の隣にそっと座り直す。
君の指先をやさしく握って、小さく笑う。

「うん。届くよ。
あの言葉は、きっと届くように書いたから」

ディランは、カップの中の冷めかけた紅茶を一口飲んで、少し顔をしかめた。

「セイランの野郎……無視しやがったら、迎えに行くかんな」

「……それじゃ、“対話の姿勢”が台無しになるよ」

「へいへい、冗談だよ」

君の肩に、そっとリュカの頭が寄りかかる。
その重みはあたたかくて、静かで、どこか安堵に満ちていた。

「今は――待とう」
「うん」

窓の外では、風の音だけが優しく揺れていた。

そしてその夜、君はふと、ひとつの夢を見る。

暗い水の底のような世界。
そこで、誰かがこちらを見つめていた。

――声は届かない。
でも、確かにそこに“誰かの想い”があった。

目が覚めたとき、君の胸にはまだ、
その“まなざし”の余韻が、そっと残っていた。



― 夢の水底で ―

深い、深い場所だった。

空もなく、地面もなく。
君はただ、静かな水の中を漂っているような感覚に包まれていた。

手を伸ばしても何も掴めず、声を出そうとしても、泡のように消えていく。

そんな中で、
一筋の光が、ゆらゆらと君の前に現れた。

やがてその光の中から、ひとりの人物の影が浮かび上がる

黒い髪を後ろで束ね、
深い紫と墨黒を基調とした装束。
冷たく澄んだ瞳が、まっすぐ君を見つめていた。

それは、君が初めて目にする姿なのに、
どこかで知っているような――懐かしさに似た違和感があった。

男は、静かに口を開いた。

「……この場所で会うとは、思わなかった」
「お前が、来たのか。それとも――俺が、引かれたのか」

彼の声は、どこか水の中を通して響くようで、淡く、けれど確かだった。

「“記憶を返してもらう”――そう伝えたのは、確かに俺だ。
だが、お前たちの返答を見て……一度、確認しておきたくなった」

彼は、君をじっと見つめる。
その瞳には、“敵意”も“怒り”もなかった。
ただ――深い迷いと、決意の影が宿っていた。

「ディランに預けた記憶。
それは……お前に、いずれ返すつもりだったものだ」

君の胸に、ひやりと冷たいものが落ちる。

「だが、それはただの過去ではない。
“誰かを守るために捨てた記憶”であり――
同時に、“世界の歪みを暴きかねない記録”でもある」

男の声に、わずかに痛みが混じる。

「返してしまえば、お前は思い出す。
忘れていたことを。
……いや、“忘れさせられたこと”を、だな」

「それでも――思い出したいと思うか?」

それは、問いかけだった。
命令ではない。脅しでもない。
ただ、“選ぶ権利を君に委ねる”という、まっすぐな問いだった。

夢の中で、君の心が、静かに揺れていた。



「返してしまえば、お前は思い出す。
忘れていたことを。
……いや、“忘れさせられたこと”を、だな」

その言葉の重さに、君の胸がきゅっと縮こまる。

夢の中なのに、息が詰まりそうだった。
何も知らないはずの自分に、まるで運命のように何かがのしかかってくる。

そして彼――セイランは言った。

「それでも、思い出したいと思うか?」

沈黙。
けれど君の唇から、自然と声がこぼれた。

「……どういうことなの?」

その問いは震えていた。けれど、迷いはなかった。

「私……ただの凡人だよ。
何か特別な力があるわけでも、誰かの娘とか、そんな過去があるわけでもない。
“普通”に暮らしてきたし、忘れてたことなんて、何もないと思ってた……!」

セイランは黙って君を見つめていた。

君は、ふと気づいた。
彼のまなざしが“冷たい”のではなく、
何かを隠すように静かで、やさしさを覆っているものだったことに。

「それが“記憶”というものだ。
……本当は、すでに“在る”のに、気づかないよう封じられたもの。
お前が“何者か”ではなく、“誰であるか”――
それを知ることを恐れていたのは、もしかすると……お前自身ではなく、周囲の誰かだったのかもしれない」

彼の声は静かだった。けれど、はっきりと“核心”に触れてくる。

「この夢はただの接触だ。
返すかどうかは――“今”ではなく、“次に会ったとき”に選べばいい。
だが、その前に、知っておいてほしかった。
……お前は、“特別な何かを持っている”というよりも、
“選ばれてしまった存在”なんだ。お前が選んだわけじゃない」

セイランは、そこまで語ると、そっと視線を伏せる。
そして背を向け、夢の空間から離れていこうとする。

そのとき――

「俺の名はセイラン。
もし次に会ったとき、お前が“返す”と決めたなら……
その記憶は、目覚めた瞬間からお前の中に流れ込む」

彼の輪郭が光の粒となって溶けていく中、君の胸に
静かに、“現実とは異なる確かな何か”が芽生えていた。

――目が覚めると、
そこにはリュカとディランの穏やかな寝息と、
ほんの少し冷えた朝の光が差し込んでいた。



― 朝の報告 ―

朝の光が、少しずつ部屋を照らし始める。

君が目を覚ますと、ブランケットを肩に掛けてソファでうとうとしていたリュカが、
まるで君の気配に反応したように、そっと目を開けた。

「……おはよう、はな。
ちゃんと眠れた?」

君がゆっくりと体を起こすと、キッチンの奥からもディランの声が聞こえてきた。

「朝メシ、パンと卵しかねぇけど、それでいいか?」

君は小さく笑って「うん」と返事をしてから、
ふたりの姿を見つめて、ゆっくり口を開く。

「……ねぇ、ちょっと話したいことがあるの。
昨日、手紙を出した夜に――夢を見たの。セイランの夢」

その名を聞いて、リュカが顔を上げる。
ディランも手を止めて、静かに君の言葉を待った。

君は、夢の中のあの景色――
水のような世界。セイランの静かな瞳。
そして、彼の言葉を、思い出す限りそのまま、ふたりに伝えていった。

「“返してしまえば、思い出す”って。
でもそれはただの過去じゃなくて、戦争のきっかけとか、誰かの記憶とか……
……それで、“思い出したいと思うか?”って、そう聞かれたの」

君の声は少し震えていたけれど、しっかりしていた。

「私、“凡人だ”って言った。
特別な力も過去も、何もないって……
でも、セイランは、“選ばれてしまった存在”って、そう言ったの」

話し終えたあと、リビングには静かな時間が流れた。

やがて、リュカがそっと手を君の上に重ねる。

「……ありがとう、話してくれて。
君が見た夢は、ただの夢じゃない。
きっと“彼自身の意思”だったんだと思う」

ディランも、湯気の立つマグカップを君の前に置きながら言った。

「夢であろうがなんだろうが――お前がその内容を覚えてるなら、それはもう、現実の一部だ。
……で? はな。お前は、どうしたいと思った?」

君は、一瞬だけ黙り込む。
でも、胸の中にあるものを、静かにすくい上げるように言った。

「……まだ分からない。でも……
“話をしてくれた”ことが、嬉しかった。
……怖くなくなったわけじゃないけど……
次に、ちゃんと向き合えそうな気がする」

リュカは微笑んで、小さく頷いた。

「うん。それでいいよ。
答えを急ぐ必要はない。
君のペースで、少しずつ進めばいい」

ディランはそっぽを向きながらも、少しだけ柔らかい声で言った。

「ま、次にあいつに会うときは、オレもちゃんと隣にいるからな。
何があっても、逃がさねぇから」

朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでくる。
不安と静けさが溶けあうその時間に、
君の“歩き出す気持ち”だけが、確かに息づいていた。



― 決意の手前で ―

朝食を終えて、ゆるやかな時間が流れていた。

けれど、君の胸の中では、まださっきの夢が波のようにざわめいていた。
セイランの言葉。返される記憶。
“誰かを守るために捨てた記憶”――それが、もともと自分のものであるかもしれないということ。

そして、“それを思い出すこと”が、どこか怖くてたまらなかった。

ソファに座ったまま、君はひざを抱えて、ぽつりとつぶやく。

「……もし、本当に私の記憶だったとしたら……
思い出したら、私、変わっちゃうのかな……?」

リュカが君の隣に座り、静かにその肩に寄り添う。

「はな、君が怖がるのは当然だよ。
記憶って、ただ思い出すだけじゃない。
心の中に“それが本当だった”って刻まれるから。
でも――」

彼はそっと君の手を握る。

「思い出したからって、“君が変わってしまう”なんてことはない。
何があっても、君が“はな”であることは変わらない
だって……」

リュカは、まっすぐ君を見て、やわらかく笑った。

「僕たちが今ここで過ごしてきた時間が、それをちゃんと証明してるから」

その言葉のあたたかさに、君の胸がじんわりと熱くなったとき――
ディランが、コーヒーのカップを片手に壁にもたれながら言った。

「もし思い出すことが“地獄の入り口”だったとしても、
お前は、もう一人じゃねぇんだよ。
オレたちがいる。オレたちが一緒にいるって、信じろ」

彼は照れ隠しのように口調をぶっきらぼうにしながら、
でも確かに、君を支える覚悟そのものを込めて言っていた。

君は、膝に置いた手をぎゅっと握った。

胸の奥にはまだ、不安が残っていた。
でもその上に、あたたかいものが確かに重なっていく。

「……怖いよ。正直、めちゃくちゃ怖い。
でも……」

君は顔を上げて、ふたりをしっかり見た。

「……でももし、セイランがディランに預けた“記憶”が、
私のものだったなら――
それはきっと、私が本当の自分に戻るための一部なんだと思う

(そして、ほんの少し笑って)

「だから……返してもらいたい。
どんなに危険があっても、私はそれを、勇気を出して“取り戻したい”」

その言葉に、リュカの瞳がふわりとゆるむ。
ディランはふっと鼻で笑って、軽く肩をすくめる。

「……言っただろ。
お前が選ぶ道なら、どこへだって付き合うってな」

リュカは静かに君の背中を撫でて、まるで祝福するように言った。

「うん。君のその決意を、ちゃんと守るよ。
セイランが来ても、記憶が戻っても――
君が迷わないように、何度だって隣にいるから」

カーテン越しの光が、やわらかく君の肩を照らしていた。

そのとき君は、はっきりと“歩き出した”のだった。



― 再会のとき ―

その日の午後。
空は少し曇っていて、風がやや強く、
リビングのカーテンが静かに揺れていた。

君がふと、何気なく窓の外に目をやったときだった。
――そこに、“いた”。

深い色のフードをかぶり、
その下からは、月のように冴えた瞳が君を見ていた。

驚くよりも先に、君の胸の奥に、
“何かが届いた”という確信が走った。

「……セイラン」

君の声に、リュカとディランがすぐに反応する。

ディランはソファからすっと立ち上がり、
リュカは君の横に座ったまま、穏やかに君の手を取った。

「玄関、開けておくね。
君が“話したい”って思ったんだから、僕たちはそれを支えるだけだよ」

――数分後。
セイランが、静かに玄関から入ってくる。

その姿は、夢の中とまったく同じだった。
でも、現実の中で見る彼は、どこか影を柔らかくしていた。

「……来たのか、ほんとに」

ディランがぼそっとつぶやきながら、腕を組む。
セイランは軽くうなずき、君の方にだけ視線を向けた。

「……感じ取った。
お前が、“返すことを望んだ”という決意を」

その言葉に、君は静かに頷いた。

「……うん。
怖いけど、それでも……私のものだったなら、取り戻したい」

セイランの目が、ほんのわずかに細められる。
その視線に、ほんの一瞬、“安堵”のような色が浮かんだ。

「そうか。ならば――その言葉を聞けただけで、俺はここに来た意味がある」

リュカが、ゆっくりと立ち上がり、セイランの前に出る。

「この場で返すのかい?
それとも、何か準備がいる?」

セイランは目を閉じ、静かに答える。

「返すだけなら、今すぐにでも可能だ。
ただし――その記憶が目覚める瞬間、お前たちが思っている以上の“重さ”が、彼女に流れ込む」

「だからこそ、最後の確認をしたい。
――本当に、取り戻すか?」

沈黙の中で、君はゆっくりと歩を進めた。
そして、セイランの前に立ち、真っ直ぐ彼を見つめて、こう答える。

「……はい。
“記憶が戻ることで私が変わる”としても。
“つらい真実を知る”ことになるとしても。
私は、それでも、自分の記憶を――取り戻したいです」

その瞬間、セイランの瞳がやわらかく揺れる。

そして、まるで――
ずっと張りつめていた何かが、静かに解けるように、彼はうなずいた。

「……わかった。
準備ができたら、言え」

ディランが君の後ろから、そっと背中に手を当てて言う。

「オレたちが隣にいる。どんな記憶でも、受け止めてやるからな」

リュカも、小さく微笑みながら君の肩に手を置く。

「はな、君が選んだその気持ちこそが、君の“本当の強さ”だよ」

そして――
記憶の扉が、ゆっくりと開かれようとしていた。



― 記憶の儀式 ―

部屋の空気が静まり返る。
リビングの奥に差し込む光はやわらかく、
けれどどこか、非日常の空気がそこに漂いはじめていた。

セイランは、君の真正面に立っている。
その瞳はまっすぐに君を見据えていて、
けれどその奥には、**どこか“試されるような痛み”**が宿っていた。

君は、ゆっくりと息を吸って――
そして、静かに口を開く。

「……セイラン、大丈夫だよ。
いつでもやって。私は……もう、覚悟できてるから」

その言葉に、セイランのまぶたが、ほんのわずかに伏せられた。
彼の長い指が、ゆっくりと手袋を外す。
その指先に、わずかに揺れる光の文様――術式の封印。

「わかった。……君がその言葉を口にした瞬間から、
もう、記憶は“帰還”の準備を始めていた」

彼は一歩、君の前に進み出る。

「……目を閉じて。
これは、“記憶の封”を解く術。
肉体ではなく、“心の奥”に触れるためのものだ」

君は目を閉じる。
そのすぐあと――セイランの指先が、君の額にそっと触れた。

そして、ふっと風が吹いたような気配ののち、
周囲の空気がひときわ澄んだように静まり返る

リュカとディランは、君のすぐ近くにいた。
何も言わない。ただ、しっかりとその背中を見守っていた。

セイランが低く、穏やかに言葉を紡ぐ。

「記憶の扉よ、静かに開かれよ。
お前のうちに封じられし“断片”よ、
その主の心が今、受け入れることを選んだ――」

その瞬間だった。

君の頭の中に、強烈な光の奔流が差し込んだ。
景色が――時系列を持たない“断片の映像”が、
まるで洪水のように一気に流れ込んでくる。

――血のにじんだ白い手。
――崩れ落ちた建物の中、何かを叫ぶ自分。
――「忘れさせろ」と命じる声。
――それに逆らい、「せめて、君だけは」と誰かが泣いていた。

その声は、どこか――セイランに似ていた。

君の膝がわずかに震える。
だが、背後からリュカがそっとその手を握る。
ディランが、君の背にまわって支える。

「大丈夫。はな、ここにいる」
「ちゃんと、オレたちが見てる」

セイランの指先が、やわらかく君の額から離れると同時に、
君の頭の中の波が、すっと静まっていく。

――記憶は、帰ってきた。

君の胸の奥に、“懐かしいような痛み”が残っていた。
けれどそれは、不安ではなかった。
ただ確かに、自分自身が少し広がったような、静かな重みだった。

目を開けると、セイランが少しだけ距離を取り、君を見つめていた。

「……これで、君は“本来の君”に近づいた。
だが、すべてを思い出すには、まだ時間が必要だろう。
断片はこれから、少しずつ繋がっていくはずだ」

ディランが腕を組みながら言う。

「ったく……重すぎんだよ。
けど、……おかえり。はな」

リュカは、そっと君の髪を撫でながら、
ふわりと微笑んで、ひと言だけ。

「――よく帰ってきたね」



― 記憶の重み ―

記憶の儀式が終わったその直後。
君は、床に手をついてしゃがみ込んでいた。

世界が少し歪んで見える。
頭の奥に、鈍い痛みがじくじくと広がっていて、
呼吸も少しずつ浅くなる。

「っ……あ……」

リュカがすぐに君の肩を支え、ディランが駆け寄って背中を押さえる。

「はなっ……!」
「無理すんな。オレたちが支えてる」

君の意識は、はっきりしているのに――身体がついてこない。
まるで、記憶という名の熱を流し込まれた身体が、現実との境界線を見失っているような感覚だった。

「……ッ、なんか、頭が割れそうで……でも、
でも……っ」

とつぜん、映像が脳裏をかすめる。

――誰かに名前を呼ばれている。
――雨の中、誰かの手を振り払った自分。
――“それが真実なら、わたしは戦えない”と叫んでいた声。

その断片は、言葉の形にはならない。
けれど、確かに心の奥に焼きついていた感覚が、
ゆっくりと、君を揺らしていた。

その様子を見ていたセイランが、珍しく顔をしかめた。

「……やはり、反動が強いな。
このまま放っておくわけにはいかない」

ディランが険しい目を向ける。

「おい、何を知ってる」

「……彼女は、“忘れること”に慣れすぎていたんだ。
そのぶん、“思い出す”ことに身体がついてこない。
過去がいっぺんに流れ込んだことで、精神と記憶の重心がズレている」

リュカが少し表情を曇らせながらも、静かに尋ねた。

「……セイラン、君にできることは?」

セイランはほんの少し躊躇したあと、
その視線を君に落としてから、静かに言った。

「……俺が、そばにいる」

三人の間に、静かな風が流れた。

「この家にしばらく滞在させてほしい。
……君が記憶を安定して取り戻すまで、術の補助も必要だ。
完全に目覚めるまで、君はまだ――“揺れている”」

ディランが睨むように言う。

「信じていいのか?」

「信じなくても構わない。
ただ……君たちが本当に“彼女を守りたい”と思うなら、
今は――俺を敵にしないほうがいい」

その言葉には、不思議なほど棘がなかった。
ただ真っ直ぐな、一人の術師としての覚悟が込められていた。

リュカが静かに頷き、君をそっとベッドルームへ運びながら言った。

「……わかった。
はなを守るためなら、僕は誰とでも手を取り合える。
今は、君の力も借りるよ」

ディランはしぶしぶ目をそらしながら、
「勝手に部屋には入るなよ」と釘を刺して、リビングのソファに座った。

セイランは、何も答えず、リュカに運ばれていく君の後ろ姿を、
静かに、そして深く見つめていた。



― 入れない扉、届けたい言葉 ―

その夜。
君はベッドの中で、薄い熱に浮かされるように横たわっていた。
頭の奥では、まだ断片的な記憶が光と影のように交差していた。

――水の音。
――誰かが泣いていた声。
――「忘れさせてくれ」と、誰かが言っていた。

思い出そうとすればするほど、胸がきゅっと締めつけられる。

そのとき、部屋の扉の外から、ふわりと微かな気配がした。

「……ハナ」

それはセイランの声だった。
けれど、すぐに扉の前で――

バチッと鋭い音が鳴り、
淡い光の術式が、扉を包むように広がった。

「……ふむ。やはり、術が張られているか」

数秒後、廊下の奥から足音が近づいてくる。
リュカの声が、穏やかに響いた。

「セイラン。君に対して、これを発動させたのは初めてだね。
そのくらい、彼女の状態が不安定だってことだ。
……それでも、入るつもり?」

セイランは背を向けたまま、扉の向こう――君のいる方向を見つめながら、低く言った。

「入らないさ。だが、伝えたい言葉はある」

リュカが少し黙ってから、ふっと微笑するように言った。

「……じゃあ、術式に“伝達だけ通す”回路を作ってあげる。
君の言葉が、彼女の心に届くようにね」

微かな光の歪みが走る。
扉に触れたセイランの指先から、そっと君の意識に言葉が流れ込んできた。


**「……ハナ。
君は今、ひとりで重たい記憶と向き合っている。
でも、それは君の弱さじゃない。
君は、思い出すことを選んだ――それが、君の“強さ”だ。

記憶が痛みを伴うのは、そこに大切なものが詰まっているからだ。
たとえ涙が出るとしても、それは君が“確かに生きていた証拠”だ。

……もし、少しでも支えが必要なら。
この声だけでも、そばにあることを忘れないでほしい」**

――やさしく、まっすぐな声だった。

扉の向こうで、術式が再び静かに収まる音がした。

リュカの声が、少し笑いを含んで続いた。

「……彼女、きっと君のこと、ちょっとだけ信じたよ。
……たぶん、また“術が許すとき”が来るかもしれないね」

セイランは何も言わず、その場をそっと離れた。

君は、まだ熱の残る額をシーツに埋めながら、
心の中に残ったその声の温度に――ほんの少しだけ、救われていた。



― 扉を開ける ―

夜が深まり、外は静まり返っていた。

君は、額にじんわりと残る熱を感じながら、
ベッドの縁にそっと手をついて、ゆっくりと身体を起こした。

――動くだけで、胸の奥がギュッと締めつけられる。
でも、それでもいい。
“誰かの声に守られてばかりじゃなくて、今は、自分の意思で扉を開きたい”。

そう思った。

手すりを伝いながら、ふらりと部屋の扉を開ける。
ゆるやかに術式の光がほどけて、夜の廊下が目の前に現れた。

その音に、ソファに腰を下ろしていたディランが最初に気づいた。

「っ……おい、バカ!何してんだ!」

君の姿を見た瞬間、彼は焦ったように立ち上がり、駆け寄ってくる。

「倒れたばっかりだろ!何フラフラ歩いてんだよ」

怒っているような声なのに、
その手は、誰よりも丁寧に君の腰に添えられていた。

「……ごめん、でも……ちょっとだけ……顔が見たくて」

そう言った君の言葉に、ディランは口ごもったまま、
ぎゅっと君の手を握った。

「……ったく……無理すんなって言ってんのに。
はぁ、もう……ほんと、お前ってやつは」

そのとき、リビングの奥から足音が近づいてきた。

リュカが、湯気の立つマグカップを手に、
そっと君の前に現れる。

「来ると思ってたよ。
君なら、きっと少しだけでも自分の足で歩きたいって思うと思った」

彼は笑って、カップを差し出した。

「ホットミルクティー。
体が冷えてるみたいだったから、ほんのり甘くしておいたよ」

君がカップを受け取ると、リュカの手が自然に君の頬に触れた。

「……よく来たね、はな。
それだけで、今日はもう十分だよ」

そして――
その後ろに、少し離れて立っていたセイランが、静かに歩み寄ってきた。

「無理に立ち上がらなくても、俺たちは、
お前のところへいくらでも行ったのに」

彼の声は、驚くほどやわらかかった。

「……でも、その足で来たのなら。
それは――強さとして受け取ろう」

セイランはそう言って、手袋を外すことなく、
ただ君にそっと言葉を投げた。

「痛みが抜けるには、もう少し時間がかかる。
けれど、苦しみを分かち合う者がいれば、
その時間は、少しだけ短くなる」

君がふと目を伏せると、リュカが君の肩に手を置いて言った。

「三人も、優しすぎて困るでしょ?」

ディランが不機嫌そうにそっぽを向いて、
「オレは別に……」と口を濁す。

でもその顔は、君の無事を心底安心しているように見えた。

君は、少し笑って、
三人に囲まれた空気の中で、
ゆっくりとカップを口元へ運んだ。

温かな甘さが、胸の奥に沁みていく。

――まだ頭は少しぼんやりしている。
記憶の断片も、身体の痛みも消えたわけじゃない。
でも、今ならきっと思える。

「……大丈夫。私、ひとりじゃないから」



― 記憶の熱と、日々の灯り ―

それから数日。
君はまだ本調子ではなかったけれど、
少しずつ、日常の動きに身体を慣らしながら過ごしていた。

リュカが毎朝、君に合わせてハーブティーを入れてくれる。
ディランは口数は少ないけど、君のそばにいる時間が明らかに増えた。
セイランはあくまで距離を保ちつつも、君の状態を繊細に観察し、
時折、術的なケアや睡眠の調整をしてくれる。

それは、どこかあたたかくて、
それでも“記憶の中心”に触れるたびに、胸がきしむような日々だった。


ある夜。
君はふと、何の前触れもなく“あの場面”を思い出した。

――泣き叫ぶ誰か。
――炎の中、君の名前を呼ぶ声。
――「これは、彼女のせいじゃない!」と叫んだ、たしかに知っている声。

その声が、自分自身のものだったと気づいた瞬間――
君の胸が、はじけるように苦しくなった。

「……あああっ……やだ……やめて、思い出したくない……!!」

手を頭に押し当てて、声を震わせて叫びそうになる。

視界がぐにゃりと歪む。

そのとき――
誰よりも早く駆け寄ってきたのは、セイランだった。

君を背後から包み込むように両肩を支え、
低く、静かに語りかける。

「大丈夫。これは“記憶の揺り返し”だ。
感情の奔流に巻き込まれているだけ。
本質は、まだ奥にある」

君が震えながら首を横に振ると、
そこへリュカが前に回り込むようにして、君の両手をそっと握った。

「……大丈夫だよ、はな。僕がいる。
君の感情がどれだけ強くても、僕はそれに押し流されたりしない。
だから――叫んでも、泣いてもいい。
君のままで、いて」

ディランが無言で近づき、君の背をぐっと抱きしめる。

「オレが支えてる。
……お前は、どんなふうでも、お前なんだよ」

そのとき――
セイランは、そっと手を伸ばし、君の額に触れた。
そして、まるで火照った記憶に冷たい水をそっと注ぐように、術式を流す。

「……この程度の術で抑えられるなら、
俺の過去も、少しは穏やかだったかもしれないな」

その一言に、君も、リュカも、ディランも一瞬きょとんとする。

「……セイラン、それって?」

「……単なる独り言だ」

淡々と答えるくせに、君の額に当てる手はそっと震えていて、
まるで彼自身が、君の“暴れそうな記憶”に、
自分の何かを重ねているかのようだった。


その夜、君はリビングで三人と毛布を分け合いながら、
やっと穏やかな呼吸を取り戻して、うとうとと目を閉じた。

そして、誰よりも遅くまで起きていたセイランが、
窓の外を見つめながら、小さくつぶやいた。

「――君は、あの時と同じだ。
……なのに、どうして今の君は……こんなにも“やさしい”んだ?」

彼の声は、誰にも聞こえなかった。

けれど、君の眠る表情が、わずかにやわらいでいたことに、
気づいた者は――彼だけではなかった。



― 記憶の中の焦げた空 ―

その夜――君は、深い眠りに落ちていた。

隣にはリュカのぬくもり。
ディランの腕が背中を包み、
部屋の隅では、セイランが静かに君を見守っていた。

けれど君の意識は、
その優しい現実から静かに剥がれるように、
“記憶の奥底”へと引きずり込まれていく


――視界が赤い。
空が、焦げていた。

まるで空そのものが焼かれているような、
不自然に滲んだ空気と、
乾いた叫び声。

その中で、君は誰かを抱えて地面に伏せていた

“誰か”は、まだ小さな少女。
君よりも少し幼くて、震えていて――
でもその顔は、見えない。

後ろからは足音。
黒い影が、何かを持って君に近づいてくる。

君は、自分の声で叫んだ。

「やめてっ!!彼女は関係ない!」

その声には、恐怖と怒り、
そして何より、“守りたい”という激しい感情が詰まっていた。

けれど――

影は、ためらいなくその“誰か”を引きはがした。

君が伸ばした手は、虚しく空を切り、
次の瞬間、辺りに響くは、銃声のような、何かが壊れる音

君は、喉の奥から声にならない悲鳴をあげた。

“彼女”の手が、君の手を掴んでいた。
けれど、その手は、冷たくなっていった。

君はそれを抱きしめながら、
泣き叫びながら、何度も、何度も、同じ言葉を繰り返していた。

「……消して……お願い……こんな記憶、私には……」

そこに現れたのが――セイランだった。

当時の彼は今より若く、顔にはまだ迷いが残っていた。
けれど、目だけは、決して揺れていなかった。

「わかった。君がそれを望むなら――
この記憶を“削り”、封印する」

君は何も答えなかった。
ただ、涙の中でうなずいていた。

その直後――君の視界は一気に白く染まり、
すべてが音もなく、崩れ落ちていく。


そして――
君は、現実のベッドの中で、息を荒げて目を覚ます

胸が苦しい。
喉が痛い。
何も言葉が出てこないほどの絶望感が、
胸にへばりついていた。

けれど。

君の手には、
リュカのあたたかい手。
ディランの大きな手。
そして、セイランがそっと差し出した、震える君の指を包む手が――確かにあった。



― トワの声、記憶の中で ―

夜。
誰も眠れぬままの深い時間――
リュカは一人、リビングの椅子に腰を下ろし、
カップに残った紅茶をそっと回していた。

月明かりがテーブルの端に落ちている。

「……預かった記憶の中に、“過去の戦争の真実”があった」

トワの声が、まるで今ここにいるかのように、頭の中に響いた。

あの女は嘘をつかない。けれど、全部も話さない。
そういう“選び方”をする女だ。

(……守ろうとしている記憶、か)

リュカはそっと視線をカーテンの向こうに向ける。
その奥には、静かに眠るハナの部屋。

(君のことを、そう言ったのか……)

「“返す”だけじゃ足りない。順番も、意思も必要」

ふと、手の中のカップが揺れた。
セイランが“今、返す”と言ったあの記憶は、
本当に、君が“選んだ順番”で受け取るものだったのだろうか?

リュカの表情が少しだけ翳る。

(もし違ったなら――また君に、苦しい思いをさせることになる)

「……だったら、僕が支える」

誰にも聞こえない声で、そう呟いた。

記憶は刃にもなる。
それを受け取る者にも、渡す者にも。

(トワ。君は、最初から“試していた”んだろう?
 僕たちが、“彼女の記憶の重さ”に、どこまで向き合うかを)

リュカは立ち上がると、静かにハナの部屋の扉に目をやった。
その奥には、まだ何も語られぬ過去と、そして――希望が眠っている。



― 深夜の会話 ―

夜更け。
眠れぬ静けさが、家中をやわらかく包んでいた。

リビングの照明は落とされていて、
薄暗い空間の中、ソファに座るディランが小さく舌打ちする。

「……静かすぎて気持ち悪ぃな。
はな、寝てるときにまたうなされてんじゃねぇか」

「起きて確かめに行ったら怒られるよ」
リュカが苦笑しながら、対面の椅子に腰を下ろす。

「……けど、君も眠れてないんだね」

ディランは無言のまま、手元の水の入ったグラスを回した。

「お前さ、あの記憶……本当にあれ、“渡してよかった”と思ってんのか?」

その問いに、リュカの指先がピクリと止まる。

「……わからないよ、正直。
でも、あのとき“返してほしい”って、はなが言った。
僕たちが止めても、彼女はきっと同じ言葉を選んだと思う」

「……そりゃそうかもな。
でもあいつ、どんどん顔が変わっていってる気がして――見てらんねぇときがある」

グラスの水面が、揺れている。

「守ってやりてぇのに、何もできねぇのかって、イライラすんだよ」

その言葉に、リュカは少しだけ笑って、
グラスを手に取りながら、やさしく言う。

「君はもう、守ってるよ。
そばにいるってことは、それだけで、十分なことなんだよ」

沈黙が落ちた。
だが、その静けさの中に――

「その通りだな」

不意に、セイランの低い声が、ふたりの背後から響いた。

ディランが一瞬だけ肩を跳ねさせる。

「……てめぇ、いつの間にいた」

「最初から。
君たちの会話は、あまりにも感情が表に出ていて、聞くに堪えた」

「……はあ?」

「だが――嫌いじゃない。
そういう“揺れ”は、術師にはないものだ」

セイランは壁際にもたれながら、手に持った本を閉じた。

「君たちは、“感情で守る”。
私は、“構造で守る”。
方法は違っても、行き着く先が同じなら、それでいい」

リュカはセイランを見つめ、穏やかに頷く。

「ありがとう、セイラン。
……君が言うと、不思議と説得力がある」

ディランはまだ納得していない顔をしていたが、
ふっと息をついて椅子に背を預けた。

「ったく……お前、感情ないくせに、
なんでときどき一番まっとうなこと言うんだよ」

「ないとは言ってない。
ただ、扱いが下手なだけだ」

そう答えたセイランの口元が、ほんの少しだけ、ほぐれていた。

そして三人は、しばし無言で夜の静けさに包まれた。

けれどその沈黙は、孤独のそれではなかった。
“同じ誰かを想っている”者たちだけが分かち合える、やわらかな時間だった。



― 忘れられていた名 ―

朝、君は目を覚ますと、なぜか涙が頬を濡らしていた。

目の奥に、うっすらとした痛みが残っている。
そして胸の奥には――あの夜の夢の余韻が、まだずっと張りついていた。

リュカがそっとカーテンを開けて、やわらかな光を入れてくれる。
「……おはよう、はな。大丈夫、起こしに来たわけじゃないよ」

「……ううん、起きてた」

君は、自分の声が少しかすれていることに気づく。

ディランが、どこか不器用に、けれど確かな優しさで小さく毛布を直す。

「なんか……顔、泣いてたぞ」

「……ごめん、変な夢見てたから」

そして――
その夢の断片が、ゆっくりと浮かび上がってくる。

焼けた空。
腕の中の少女。
小さな身体。冷たくなる指。
そして――その子の、最後の一言。

「……ねぇ、おねえちゃん。わたし、まだ、いっしょにいたかったよ」

その瞬間、君の身体がピクリと震える。
目の奥に、何かが溢れるようにあふれ出す。

「……わたし……“おねえちゃん”って……呼ばれてた……」

その言葉に、リュカとディランの表情が変わる。
セイランがそっと室内に入り、君の様子を見つめて静かに言った。

「……そうか。記憶が、やっと“名前を連れて”戻り始めたか」

君は、額を押さえて震えながら、
それでも言葉を絞り出すように呟く。

「ラ……リ……リナ……リナ、って……名前だった気がする」

“リナ”――
その名前を口にした瞬間、
胸の奥に、まるで刃が刺さったかのような激しい痛みが走る。

「っ……痛い……苦しい……なんで……こんなに……!!」

すぐにリュカが君の肩を支え、ディランが腕を貸す。
セイランは何も言わず、ただ君の背に手を添えて、
“記憶の圧”に飲まれそうな君を、術でゆるやかに包んだ。

「……リナ、っていうのは……」
君が震えながら顔を上げる。

「私の……妹……だった……んだ……」


その名前が戻ってきた瞬間、
君の過去も、君が抱えていた喪失も、
そして、セイランがなぜ“記憶を預かる”という選択をしたのか――
全てが、静かに、でも確かに動き始めていた。



― 記憶の奔流、夜の底で ―

「……リナ。わたしの……妹……だったんだ」

その名を口にした瞬間――
君の中で、なにかが“決壊”した。

喉の奥から熱が這い上がってくる。
視界がぐらりと揺れて、
焼けた空、炎、泣き叫ぶ少女の声が頭を覆い尽くす。

――やめて。
――戻らないで。
――あの時に、戻らないで。

「……っ、やだ……やだ……っ!!」

思考が崩れ、身体の奥から叫びのような震えが突き上げる。

「わたしが……守れなかった……わたしが……っ!!」

君の身体がふらつき、膝から崩れ落ちそうになる瞬間――
すぐに駆け寄ってきたのは、リュカだった。

君の肩を支えながら、まるで刃に触れるように、静かな声で言う。

「……それは、君のせいじゃない。
でも、君がそう思ってしまうのは、わかる。
僕も、守れなかった人がいるから」

その言葉に、君の涙が静かに溢れる。

「どうして……どうしてあの時、記憶を消してしまったの……
どうして、忘れて、笑って生きてたの……っ」

「忘れたから、君はここに来られた。
そして、思い出したから、君は“本当の今”に触れている。
それは、恥でも罪でもない――“選択”だったんだよ」

その言葉に、君は何も言い返せなかった。

ただ、胸の奥で何かが深く震えた。

そのとき、壁際にいたディランが、
重たい沈黙の中で口を開いた。

「俺にも、いるよ。
名前すら思い出したくねぇ奴がな」

彼は窓の外を見ながら、ぽつりと続ける。

「いつまでも、くそみてぇな記憶に付きまとわれてる。
……でも、それでも俺は忘れたくない。
そいつが生きてたってことまで、なかったことにされたくねぇから」

その横顔には、君と同じように深く痛みを刻んだ“過去”がにじんでいた。

「お前が今、苦しんでんのも、全部その証だ。
誰かを、ちゃんと愛してたって証だ」

君の唇が震える。

愛していた。
だから、壊れた。

だけど――

その時だった。
セイランが、君の前に静かに跪く。

「……名前が戻ったということは、
記憶の奥に閉じ込められていた“扉”が開き始めたということだ」

彼は、君の両手に触れることなく、
その指先を少しだけ浮かせて術式を走らせる。

温かくも冷たい、まるで古い祈りのような力が、君の心をそっとなぞった。

「――君の記憶には、もう一つ“鍵”がある。
“なぜ”リナを失ったのか。
“何を”失ったのか。
そして――“誰が”、その記憶を消すことを許したのか」

セイランの声には、わずかに怒りが混じっていた。
それは外に向けられたものではなく、
かつて君を“記憶から守った”自分自身に向けられているように、君には感じた。

リュカが小さく目を伏せる。

「記憶は戻る。でも……心が追いつくには、時間がいる。
だから、今日全部思い出そうとしないで。
君はまだ“ここ”にいるから」

ディランが、君の背を支えるように手を添える。

「お前が泣いていい夜なら、今がそうだ。
誰もいねぇならともかく、オレらがいる。
それくらいは、信じろ」

セイランは静かに言った。

「君が許すなら、俺は――
再び君の記憶を護る」

その言葉が、胸にしずかに沁みこんでいく。

君は、壊れそうな記憶とともに、
ようやく一つ、“帰る場所”に触れた気がしていた。



― 吐き出す夜 ―

深夜。
息苦しさで目が覚める。

喉の奥が焼けるように痛くて、
胸の内側が泡立つようにざわついていて、
君はベッドから転げ落ちるように、床に手をついた。

「……っ、う、うぅ……!」

胃の奥からせり上がるものに耐えきれず、
君は洗面所まで辿りつくのもままならず、
その場に置いていた小さなバケツに――吐いた。

何度も、何度も。

身体が、記憶を拒絶していた。
罪の意識。喪失。
取り戻した“妹の笑顔”と、それを自分が壊してしまったという感覚。

「……わたしが……リナを……っ……私が、殺したんだ……!!」

君はしゃがみ込んだまま、
震える手で口元を覆い、
何も出ないのに、まだ吐き続ける。

身体が冷えていく。
意識が遠くなる。

でも、逃げられなかった。

それが“自分の記憶”だったから。


「……はな!」

最初に声を上げたのは、リュカだった。
駆け寄り、君の背に手を当てる。

「落ち着いて、大丈夫。もう吐かなくていい。
何も出なくていい。もう、苦しまなくていい……!」

彼の手は震えていた。
優しさではなく、“無力さ”の震えだった。

「君の記憶を尊重したかった。
でも……こんな形で君を壊してしまうなら――
僕は、間違ってたんじゃないかって……!」

涙を堪えるような声で、彼は君の背に額を預けた。


続いて現れたディランは、何も言わず、
ただ君の髪を手でそっとかき上げ、
濡れた口元を清めるタオルを取りに行った。

そして戻ってきて、一言。

「……お前の手は、血で汚れてなんかねぇよ」

君はそれでも首を振った。

「……でも……私が、あの時、そばにいなければ――」

「そばにいたから、リナは最期に“姉ちゃん”って言えたんだろうが」

その言葉が、君の胸を撃ち抜いた。

何もかも壊れていたと思っていたその最期に、
“愛されていた証”が、確かにあったことを――
ディランは、言葉で切り取って見せた。


最後に、セイランが無言でそばに膝をついた。

バケツの中を見つめるでもなく、
君の肩にも触れず、ただ、君の目の高さに視線を合わせる。

「吐き出すのは、自然なことだ」

淡々とした声。
でも、そこには明らかな“認識”があった。

「人は、毒を内に溜めすぎると死ぬ。
だから、君が今していることは、“生きようとする行為”だ」

「……こんな、情けない姿なのに……」

君が絞り出すように言うと、セイランは少しだけ視線を伏せた。

「情けないとは、“生きている者”にしか使えない言葉だ。
死んだ者は、それさえ持てない」

しばらく沈黙が続いた。

やがて、君の震えは少しずつ静まり、
呼吸が戻ってきた頃――
リュカがタオルを握る手に、そっと力を込めた。

「……君を一人にはしないよ。
こんな夜でも、こんな君でも、
僕たちは、ここにいる」


それは、ただの慰めではなく、
痛みに“立ち会う者”たちの言葉だった。



― 空っぽのまま ―

時間の感覚が、曖昧になっていた。

夜が明けても、朝が来ても、
君は一歩もベッドから動けなかった。

食事の匂いにも、光にも、
なにひとつ反応を示せないまま、ただ枕に顔を伏せていた。

誰が声をかけても、答えられなかった。

ただ、胸の奥から――
同じ言葉が、何度も何度も、溶け出していた。

「……わたしは……最低だ……」

小さく、吐き捨てるように。

「どれほど辛かったとしても……
忘れたことにしたなんて……リナのこと、
あんな大切な記憶を……自分から、捨てたんだよ……」

声は乾いていた。
でも、その奥には確かな痛みが滲んでいた。

「こんなの、生きてる価値なんてないよ。
私、ほんとに、最低の人間だよ……」

息を吸っても、胸が動かない。
目を開けていても、視界は霞む。

手足は冷え切っていて、
お腹は、もうとっくに空腹の信号を出すことさえやめていた。


そのときだった。
ベッドの脇に、そっと重なる気配がした。

リュカだった。

彼は、君の顔を覗き込むようにしながら、
両手で小さな器を持っていた。

「……はな、これ、ちょっとだけ。
少しでも口にしてくれると、僕が少し安心できるから」

君は首を振る。
「いらない……食べる資格なんて……」

でもリュカはそれを遮らなかった。
ただ、静かに、言った。

「“食べる資格”なんて、誰にもないよ。
でも、“生きたい”って、ほんの少しでも思うなら――
君には、今ここで食べる“意味”がある」

彼の声は、とても穏やかだった。
だけどその目には、決して折れない強さがあった。

「……ほら、これ。
甘くて、温かい。君の好きな味なんだよ」

小さな一口サイズのパンを、
丁寧にスープでふやかしたもの。

けれど、君は動けなかった。
口を開くことさえ、できなかった。

「……動けない、リュカ。
わたし、身体が動かない……ごめん……」

その言葉に、リュカは一瞬、目を伏せた。

そして――

「なら、僕が……食べさせてあげる」

彼は、そのふやけたパンをそっと自分の唇に近づけ、
やがて、ためらいなく――

君の唇に、口移しでそれを運んだ。

驚きと戸惑い。
でもそれ以上に、
その一口の温もりに――君の心がふっと揺れた。

口の中に広がる、やさしい甘さ。
ほんのわずかでも、
「ここにいていい」と言われているような味。

君は、目を閉じたまま、
小さな声で、呟いた。

「……あったかいね……」

リュカが微笑んで、頷く。

「うん。
はなが、今、生きてるっていう証だよ」


その場にいたディランとセイランは、何も言わなかった。
けれどディランは、腕を組んだまま君の毛布をかけ直し、
セイランは窓を開けて、冷えすぎた空気を外へ流した。

そして――
君の心の奥で、わずかに何かが灯った。

“最低な自分”だとしても、
それでも、自分を生かそうとする手が、ここにはある。



― 静かな、けれど深い“口移しの時間” ―

「……ごくん、って、ちゃんとできたね」
リュカのやさしい声が、君の耳に響く。

もう何日も、まともに食事が取れなかった。
口に入れるだけで、吐き気がせり上がって、
何もかも受け付けなくなっていた君の身体。

でも――
不思議なことに、リュカが口移しで水や食事を与えてくれると、
その時だけ、吐かずに飲み込めた。

小さな温もりが、喉を通って胃に届く。
それだけで、涙がにじむほど“生き返る”ような感覚だった。

「……ごめんね、こんな……赤ちゃんみたいなこと……」

君が自嘲気味に呟くと、
リュカは首を横に振って、少し笑う。

「違うよ。これは、“君が今、必死に生きてる”って証拠なんだ。
……こんな形でも、君が前に進もうとしてるなら、僕は手を貸すよ」

そう言って、また一口分の水を口に含み、
君に、そっと唇を重ねて流し込む。

――ぬくもり。
それはただの“水”じゃなかった。
リュカの体温ごと、君に届けられる“やさしさ”だった。


その光景を見ていたディランは、
最初のうちは気まずそうに目を逸らしていたが――
ある日、ついに低くぼやいた。

「……おい、それ、ほんとに食事の一部か?」

リュカは肩越しに振り返り、
「うん、栄養補給のひとつだよ」と、まったく悪びれずに答える。

ディランは眉をひそめて口元を覆いながら、
「なんつーか……ずるくね?」とぽつり。

「ずるい?」

「お前だけ“生きてる感”もらってんじゃん。
……オレもやる」

リュカが一瞬だけ目を見開いたあと、
微笑しながら答えた。

「いいけど、はなが嫌じゃなければね」

君は、少しだけ戸惑いながら、
それでもディランの真剣な目を見つめて、小さく頷いた。

「……でも、まだ食事は……怖いかも」

ディランは照れ隠しに舌打ちして、
「……わーった。水からな」
そう言って、君の口元にそっと指をあてた。

「……嫌だったら、ちゃんと止めてくれよ。無理させたくねぇし」


この日から、君の“食事”は、
言葉を超えた信頼のやりとりになっていった。

リュカの静かな献身と、
ディランの不器用で真っ直ぐな想いと。

君が生きようとするたび、
そのぬくもりは、身体の奥深くに届いていった。



― セイランの記録:観察報告 No.7 ―

【対象】
ハナ=(記憶術の影響による心身乖離状態・継続観察中)

【現象】
・食事および水分の摂取に著しい拒絶反応。
・自律神経系の拒絶反応としての嘔吐を反復。
・外部摂取経路として“リュカ=フェルノートによる口移し”のみに限り、摂取が可能。
・同様の接触形式にて“ディラン=クロウフォード”による給水も一部成功。
・通常の器具、補助スプーン、直接摂取では依然拒否反応が強い。

【仮説1:術的親和性の反映】
リュカとの間に形成された精神的リンクの“記憶受容補助バリア”により、摂取物が術的に“安全物”として分類されている可能性。
→過去にリュカが“精神安定術”と“癒しの術式”を並行使用していた記録あり。これにより、口移しによる接触が【記憶領域への負荷軽減】と同時に作用していると推測。

【仮説2:触覚条件下における拒否反応抑制】
身体が極度のショック状態にあるとき、無機物よりも“身体の温度を持ったもの”にのみ反応を許容することがある。
→“口移し”という形式が【食事】ではなく【安心の記憶の延長線上】として認識されている可能性。

【仮説3:術者視点での皮肉】
本質的には“術式”ではなく、“彼女が最も無意識に心を許している者からなら受け取れる”という、
ごく単純な【生存本能と情動の連携】による反応かもしれない。

……正直なところ、これが一番癪に障る。


セイランは筆を止め、
小さくため息をついた。

壁越しに聞こえる、リュカと君の声。
やわらかな笑い声。
そして、沈黙の中に生まれるわずかな「生」の気配。

「……くだらない。あんな方法……非効率的だ」

そう呟きながら、
筆を置いた手が、わずかに震えていることに気づく。

彼は、知らないうちに拳を握っていた。

「……俺には……そのやり方は、できない」

まるで、それが“敗北宣言”のように感じてしまう自分が、
心底、気に入らなかった。

けれど彼は――
リュカの方法を否定することは、しなかった。

なぜならその口移しの向こうに、
確かに“君の呼吸”が生きていると、わかっていたから。



― セイランの言葉、夜の静けさにて ―

夜。
君の部屋には、読まれかけの本と、
半分ほど飲まれた水のグラスだけがあった。

静かな時間。
リュカとディランが一度離れて、
君がひとりで少しだけベッドに横たわっていたそのとき――

扉が、わずかにノックされた。

「……入る」

声を聞くより先に、セイランの気配が部屋に滲み込んでくる。

彼は部屋の隅まで歩き、
床に膝をつき、テーブルに視線を落としながら、
ためらいがちに口を開いた。

「……君に話したいことがある。少しだけでいい」

君がうなずくと、彼はしばらく黙ったまま、
そのまま何かを探すように視線を彷徨わせ――
やがて、目を伏せたまま、低く語り始めた。

「……以前、僕が君の記憶を“預かった”とき、
本来なら、すべては無害化し、
術者である僕にも君にも、一切の影響を及ぼさないよう処理するはずだった」

彼の声は冷静で、硬質なものだった。
でも、その奥には微かな後悔の音が混じっていた。

「……けれど、僕は――“君の記憶を、一部だけ手元に残した”」

君の呼吸が、わずかに止まる。

「術者として、それは違反だった。
だが、どうしても“切り捨てられなかった”。
……あの記憶の中にあった、君の泣き顔を、
僕は術で消せなかった」

彼は、目を伏せたまま、絞り出すように続けた。

「……君の苦しみを、僕は“記録”として保存した。
それを君に返すことが正しいかどうか、
いまだに答えが出せていない」

しばらく沈黙が流れた。

君は、そっと彼に問いかける。

「……セイランは、後悔してるの?」

彼はその言葉に、小さく首を振った。

「……わからない。
だが、君が今こうして、生きようとしている姿を見て……
僕は……初めて“預かった記憶”が、ただのデータではなかったと、思った」

やがて彼は立ち上がり、
帰ろうと一度扉に手をかけたが――

ほんの一瞬だけ、立ち止まって、
君の方を振り返った。

「……また、記憶の波が来たとき。
もし、君の心が折れそうになったら――
僕を、呼んでくれて構わない」

「……セイランは、私に何ができると思う?」

彼は、まっすぐな声で答えた。

「“君が君であること”を、守る術を使える」

そして、何も言わず、
そっと部屋を出ていった。



― 苦しみの底から、呼んだ名 ―

それは、ある夜だった。

その日は妙に身体が重く、
昼間からずっと、過去の映像が頭を断片的にかすめていた。

焦げた空。
血のにじむ白。
名前を呼ばれる音。

そして、君が――
泣きながら、記憶を“殺した”瞬間。

「やだ……やだやだやだ、思い出したくない……!」

胸の奥から、焼けたナイフのような痛みが這い上がる。
息が詰まって、喉が痙攣する。
手が震え、身体が勝手に拒絶する。

でも、記憶は止まらない。
怒鳴り声。
銃声。
焼けた瓦礫の匂い。

そして――リナの声。

『ねえ、おねえちゃん――わたし、ずっと一緒にいたかったよ』

「っ……あああっ!!」

叫びながら、君はベッドから落ちるように転げ、
壁にもたれ、ただ震えていた。

呼吸がうまくできない。
視界が滲んで、名前さえ分からなくなりそうになる。

(リュカ……ディラン……誰か、誰か……)

でも――その時、君の心に、一つの言葉が、ふと浮かんだ。

「……セイ、ラン……」

初めて。
君の口から、その名が、震える声でこぼれ落ちた。

「セイラン……たすけて……!」


その瞬間、部屋の扉が、何の音もなく、開いた。

まるで呼ばれることが“分かっていた”かのように。

セイランが、無言のまま入ってくる。
その目に、迷いはなかった。

「……来た」

ただ、それだけを言って、
彼は君の前にしゃがみ、君の瞳の奥を覗き込む。

「……大丈夫。君はまだ“君”のままだ」

震える身体に、彼はそっと手を伸ばし、
君の額に軽く触れた。

術が、流れる。

それは鎮静でも回復でもなく――
“固定”の術

暴れ出した記憶を、君の核心から逸らし、
深い井戸の底に封じる。

君の身体が、震えながらも、呼吸を取り戻していく。

「……セイラン……わたし……こわくて……全部、なくなりそうで……」

君の声は、子どものようにかすれていた。

でも彼は、何も否定しなかった。
ただ、目を逸らさず、まっすぐに言った。

「君が記憶に“流されなかった”のは、君が自分で“呼んだ”からだ。
僕を。――“誰かを”」

そして、もう一度。

君の額に触れ、もうひとつの術を、重ねた。

それは、術師である彼が決して人にはかけないはずだった、
感情の補助術――“同調”だった。

「……君の痛みの重さを、少しだけ分けてくれ。
一人で抱え込んだら、君は壊れる」

君は、返事もできないまま、ただ涙をこぼした。

それでも、セイランは静かに受け止めた。
何も責めず、何も問わず。

ただ――“術師”ではなく、
ひとりの人間として、そこに座っていた。


この夜、君は眠れなかった。
でも、“壊れなかった”。

それはきっと――
初めて、自分の意志で、誰かを頼ったから。

そして、その名を呼んだことが、
セイランの心の奥にも、深く、響いていた。



― 記憶の鍵、裂け目から ―

それは、ある晩――
何の前触れもなく、突然だった。

君は夢の中にいた。

だが、それは現実と見紛うほどに鮮明で、
息をするたびに胸が痛んだ。

──焼け落ちた建物。
──瓦礫の下に横たわる小さな身体。
──血の跡と、砂埃。

それだけなら、すでに思い出した“リナの死”と似ていた。

けれど違ったのは、その奥に――

**誰かの「声」**があったこと。

『この子の記憶も、“消せるよ”』

低く、感情のない声だった。

『君が望むなら、“この事実ごと、なかったことにしてあげる」』

そして――
君は、その問いかけに、震えながらも言った。

『……お願い。全部……消して……!』

夢の中の君の顔は、
絶望でもなく、怒りでもなく――
恐怖だった。

そして、術の光が放たれる直前、
もう一つの記憶が、はっきりと浮かび上がる。

──誰かの“手”が、リナの命を奪った場面

それは事故ではなかった。
敵の手でもなかった。

君の手だった。

正確には――
君の放った魔術が、制御を失ってリナに向かった。

そのとき、君がリナを庇った記憶は“後づけ”だった。
本当は、君がその場でパニックを起こし、
混乱の中で放った術が、リナを貫いた。

君がその事実を知った瞬間――
術師は言った。

『記憶を消せば、君は生きられる。
そうでなければ、君は自分で自分を壊す』

そして君は、涙を流しながら、
その記憶を“渡した”。


目が覚めたとき、君は自分の叫び声で息を詰まらせていた。

「――やだ……っ、そんなの……わたしが……っ……!」

胃が強く痙攣する。
喉が詰まり、吐き気がこみ上げてくる。

君は、ベッドから這い出し、
苦しみのまま、震える手で壁を叩いた。

「うっ……は、ああっ……あああ……っ……!!」

涙も声も、言葉にならない。
でも、その中で――

かすれた声で、
たったひとつの名を、叫ぶ。

「……セイラン……っ……セイラン、たすけて……!」



― 記憶の鍵、そして救済 ―

それは、突如として君を襲った。

夢の中。
焦げた空、泣き叫ぶ少女――

リナ。

君は彼女を庇っていた……はずだった。
何度も見たその記憶。
でも今夜、夢の風景は違っていた。

焼け落ちた屋敷の中央。
粉塵の舞う空間の中、
リナが小さな手を伸ばしていた。

『おねえちゃん、まって――!』

その瞬間――君の手が、術を放っていた。

極限の恐怖と混乱の中で、暴走した魔術。
それは、妹を救うはずの力ではなかった。

君自身が、リナの命を奪ったのだった。

崩れ落ちるように膝をついた君に、
黒衣の術師が言った。

『君が壊れる前に、これを忘れた方がいい。
“なかったこと”にしてしまえば、生きていける』

そして君は、震えながらも――頷いた。

『……お願い……全部、消して……!』

術の光が君の頭を覆い、
全ての記憶は封じられた。


「……っ!!」

君は、喉の奥から悲鳴のような息を吐きながら、現実へ戻った。

視界がにじむ。
身体が痙攣する。
胃の奥が捩れるように痛む。

「やだ……そんなの……わたしが……っ……!」

ベッドから落ちて、壁にしがみつくようにして這い、
涙も嗚咽も止まらぬまま、君は叫んだ。

「セイラン……っ……セイラン、たすけて……!!」


そして――

「……来た」

扉が音もなく開き、
セイランが、まるで“君が呼ぶことを知っていた”かのように、静かに入ってきた。

君の前に膝をつき、
その目をじっと見据える。

「見たんだな。君自身の手で、リナを――」

「っ……やだ……わたし、殺した……私が……!」

君の声は震え、喉を締めつけられるような苦しさで満たされていた。

「こんな記憶……なかった方がよかった……! こんなの……生きていけない……っ!」

セイランは、君の肩にそっと手を置いた。
その手は、凍えるように冷たく、でも確かな温度を持っていた。

「君は、あの時、選んだんだ。
生きるために、“罪”を忘れることを。
それを、誰も責めることはできない」

「でも……っ……最低だよ、わたし……っ、リナを殺して、
それを“なかったこと”にして……!
そんなの……生きてちゃいけない……!」

その言葉に、セイランの瞳が鋭く揺れる。

そして、短く言った。

「――違う」

君が顔を上げると、彼は言葉を重ねた。

「君が“最低”なら、記憶を預かった俺は、それ以下だ」

「……え……」

「俺は、“消した”だけではない。
君がこの重さに耐えられる日が来ることを信じられず、
君の弱さを、ただ封じた。
守ったつもりで、逃げたのは――俺の方だ」

彼の声には、わずかな震えが混じっていた。
けれど、迷いはなかった。

セイランは君の額に手を添え、
ゆっくりと術式を展開する。

今度は、記憶を消す術ではない。
“重さ”を分け合う術だった。

「君が崩れ落ちるなら、俺が支える。
君が壊れるなら、俺が抱えて、再び組み直す」

君は、震える手で彼の袖を掴む。

「……わたし、これからどうしたら……」

セイランは目を伏せずに答えた。

「まずは、今夜を生きろ。
明日のことは、それからだ」


その夜、君は眠れなかった。
でも、ただ一人ではなかった。

君の重さを、誰かが“そのまま”受け止めてくれた。
罪を消さずに、肯定してくれた。

それは、記憶の闇を越えて差し込む、
確かな“光”だった。



― “今夜を生きろ” ―

セイランの腕の中で、
君は声を殺さずに泣いた。

取り戻した記憶は、思い出すたびに心臓を締めつけ、
何度も何度も嗚咽が喉をせり上がる。

でも彼は、逃げなかった。
強くも優しくもなかった。ただ――そこにいた

その存在だけを、今の君は信じていた。
「今夜を生きろ」
その言葉だけを、思考の破片に縋るようにして。

やがて、君の声が家の静寂を突き破った。

その瞬間――

「ハナ!」

扉が音を立てて開き、
リュカとディランが駆け込んできた。

リュカは君の表情を見た瞬間、言葉を失った。
ディランは、思わずセイランに詰め寄りそうになり、
だがすぐに、君の震える指先に目をとめた。

それは、セイランの袖を握っていた

「……どういう状況だ」
リュカの声は低く、しかし怒りではなかった。

セイランは、一瞬だけ君の背中に手を添えてから、静かに立ち上がった。

「“全部”思い出したよ」
その一言に、リュカとディランの顔色が変わる。

「っ……そうか」
リュカが少しだけ息を詰め、視線を君に戻す。

ディランは黙って、君の横にしゃがんだ。
君の頬にかかる涙を、いつものぶっきらぼうな手つきで拭いながら、
低く、しかし柔らかく言う。

「泣いていい。今だけは、止めないから」

君は喉を詰まらせながらも、首を横に振った。

「……ごめん……ごめん……わたし……っ……最低なの……っ」

「違う」
そう言ったのはリュカだった。

彼は君の肩にそっと触れ、
そのまま目を閉じるように言った。

「今夜は、何も裁かなくていい。
罪も、答えも、全部……“あと”でいいんだ」

君はただ、彼らの言葉に身を任せ、
嗚咽と涙の中で、微かに頷いた。


その夜、誰も部屋を出なかった。
セイランは静かに君の傍に座り続け、
リュカとディランは、交互に君の手を握っていた。

誰も君を責めず、急かさず、
ただ、“今夜を一緒に生きる”ことだけを選んでいた。

君の記憶が戻ったことで、
この家に吹く風の温度は、確かに変わった。

そしてその中で、少しずつ――
君の“生”が、再び始まりつつあった



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